子どもたちは今 ~子どもたちの声~

2020年度 年次報告(2020年4月1日〜2021年3月31日)

2020年度 年次報告 「はじめに」より

コロナ禍を背景にして

 コロナ禍を抜きにして今年度の年次報告は語れないと思っています。それはマスコミがセンセーショナルな話題を求めて「コロナが子どもたちにどんな影響を云々」という次元ではなく、つまり直接的原因ではないけれど、日常で子どもたちの背景に立ち塞ったコロナ禍という社会現象は、子どもたちにどんな状況を齎しているのか ー。私たちの力量では力不足でどこまで探れるかわかりませんが、それでも子どもたちが寄せてくれた声を繋ぎ合わせて、様々な方向から子どもたちにコロナ禍がどんな問題を投げかけているのかを少しでも浮彫りにしていきたいと、年次報告書作成にあたっての編集会議で話し合われました。

 しかし、子どもたちの話から社会現象の課題を深堀りしていく難しさは、常々感じていることなのです。チャイルドラインは子ども専用電話で、電話をかけてくるのは子どもだということです。基本的に子どもは語彙が不充分以上に問題を整理して話さないということです。例えば貧困のことでも子どもたちは、決してといえるほど「うちは貧困です」とは云わないのです。その問題を本人が認識しているのかいないのかさえ定かではない。そんな場合が殆どです。それに比べればコロナのことは、具体的な言葉として表現されています。しかしトータルでみるなら、子どもたちが具体的に語ってくれた言葉より数倍コロナの影響が深刻であると、受け手の記録の中に感じとれます。

 くり返しになりますが、子どもたちは状況や起こった出来事を整理して話してくれる訳ではありません。言葉の端々にのぼることを受け手の感性が受け止めて、整理や分析をとおしてみえてくることが多々なのです。受け手の質(勿論支え手の質もです)が問われるのは正しくここだと思っています。それは支援という事業に携わるすべての支援者に共通する課題だと思っていますが、支援者は寄り添うことを第一義的な目的にしつつ、いいえなぜ寄り添うことが第一義的目的になるのかその意味こそが重要で、それが抜け落ちてしまったら、電話を受ける意味を失うことになるのではないかと私は考えています。

不登校

 コロナ禍を背景にした子どもたちの電話の中で、私の心が大きく揺さぶられたのは不登校をしている子どもからの声でした。

コロナ禍は子どもたちにとって、学校側から強制的に(子どもたちの意思を全く確認することなく、という意味で)休校が打ち出されています。従来の夏休みとか、冬、春休みとは質の異なる休みが休校という形をとって子どもたちにもたらされたことになります。Yes. Noを別にしてそれは子どもたちにとって、大きな戸惑いであったことは確かでしょう。

 不登校を自認する子どもは云います。学校に行っていないのが自分だけではないという現実を前に「ほっとする」気持になれたと。学校へ行っていないということで、常に付き纏っている罪悪感から逃れることができた・・・と。そんな電話がそれなりに入ってきます。コロナ禍を背景にした社会状況に救われる子どもの気持。あまりにも切なくてつらかったです。 不登校という表現は — 「学校へ行くべきなのに行かない子ども」という大人の論理を出発点にしているように私は感じます。一方登校拒否は、子どもの側からの意思「子どもを権利主体」にした表現だと、それはあくまでも私という人間の感性が受け止めることですが思うのです。 学校へ行けなくなった子どもの数が増えてきて、社会問題になりそうな兆しがあった頃、その子どもたちのことを社会は「登校拒否」という言葉で論じていたと思います。いつ頃からか私の記憶は定かではないのですが、不登校に変換されていました。

 そもそも論で云うなら、不登校とは子どもが「学習権という権利を放棄する行為」ということなのではないでしょうか。

 社会は大枚を投資してでも子どもたちに学習権を保障しなければならない義務があり、子どもの側にある権利は学習権。しかも今や全国でその権利を放棄している子どもの数は23万人以上です。何を以って不登校とするかによっては更に増していきます。子どもたちはなぜ学校に行きたくても行けないのか — 。学校へ行かねばならないというプレッシャーに押し潰されそうになっても、罪悪感を背負って日々を送っても尚、学校へ行くことができないのか — 。又は行きたくないと思うのか — 。なぜ?なぜ?という疑問でいっぱいになります。

 学令に達したとき私たちは、子どもを学校に通わせることをあまりにも当然とする考え方に立っています。(故意に違反したら虐待です。)そう刷り込まれて育っています。だから子どもが登校を拒否したとき、親も子どもも他の選択肢に辿り着くには長いなが〜い苦悩の日々を送った末、ということになってしまうのだと思います。なぜそこまで私たちは、学校へ行くという行為に縛られているのでしょうか・・・。

 学びとはいったい何か、何を指して学びというのか・・・と思います。凄く大きいけれどそれでも学校も学びの一つの場にすぎないのに、いつの間にか私たちはそこを唯一の場と思い込み、しかもオールマイティであると錯覚してしているのではないでしょうか — 。

 かつて学校は、画一的な教育であっても学べる場があるというだけで、大きな価値を持ち役割を果たしていたと思っています。しかし社会が多様化する中で、なぜか変化することを意としない学校教育の現場は、子どもの側からみたとき、自分という個が無視されているようにも感じられるのではないでしょうか。画一的でない人間の集団に、なぜか画一的な教育が施されているのが現実なのです。

 世間ではいじめだけが不登校の原因のように思われています。勿論大きな一因です。そしてもっと大きな因を生すものは、子どもたちの心に友だちをいじめずにはいられない闇がつくり出されていく背景、子どもたちが背負っている様々な状況でしょう。そしてそれよりも更に大きな問題は、構造的なことだと私は考えてしまうのです。口幅ったいことを云わせていただくなら国の教育政策です。

 日本列島改造論が打ち出されたことによって、一握りのエリートの輩出は見事成功しました。しかし、それに取り残された数多くの人たちがいます。その人たちの成し得なかった思いは世代を越えて今の子どもたちに引き継がれ、子どもたちはその荷を負っているように感じています。教育のあり方、人の育ちは長いスパンに依ります。つまり今を生きている子どもたちも、犠牲になっているといえないでしょうか。

 社会(国)は確かに教育の場を保障しています。しかし今日本で問われる教育とは知識を詰め込んで記憶をストックするに終わらせず、生きる力に転換していく意欲、そこにつながる教育こそが大事だと、子どもたちの話を聴けばきくほど感じてしまうのです。そしてそれは子どもの主体を、個の尊重を保障することではないかと思うのです。学校の多様性を論ずることすら憚られる日本の教育のあり方ですが、それだけに学びの場が画一的でいいのかと、何度でも問いが生まれてくるのです。私の知る限り文科省から出されている教育ビジョンは「生きる力」を謳っています。何を原因としてかは計りかねますが、現場は変化していないと感じるのです。現場を変えることがいかに大変か想像にかたくありませんが、ビジョンを絵に描いた餅にしている限り、子どもたちの置かれている状況は変化の仕様がないと思うのです。

 アメリカで視察したチャータースクールが絶対的だとも思っていませんし、上手く機能しているのかも私は知りません。しかしその時思ったのです。子どもたちに学校を選択できるという選択肢があることの凄さと素晴らしさを。少なくともそこには、今の学ばされる客体から学ぶ主体に子どもたちがなっていくと、そういう姿がみえてくるに違いないと私には思えてならないのです。

電話から聴こえてくる子どもの声

背景としてのコロナ

チャイルドラインにかけてくれる子どもたちの電話の内容を聴いていると、悩みの向こうにある権利侵害を感じることが多くあります。コロナ禍では感染拡大予防の大義のもと、子どもの意見表明権や参加する権利が保障されず、大人主体で進む日々に、もともとあった子どもたちへの権利侵害がより浮き彫りになったと思います。

自死

 昨年1年間に自殺で亡くなった小中学生と高校生は合わせて479人と前年の1.4倍に増加し、これまでの国の調査でも過去最高となりました。特徴的なのは、高校生女子の自殺が大幅に増加し、67人から138人と2倍以上に増えたことです。自死は多くの場合、複数の要素が絡み合って起こると言われています。子どもであり女性であるという最も弱い立場であること、弱者が権利侵害され続け人としての尊厳が失われ、人とのつながりが切れてしまうことで孤立し、生きる意味を無くしてしまうのではないかと思います。

不登校

 以前から不登校の状態にあった子どもたちからは「休校になったことでほっとする」「ずっと続いてほしい」などの声があり、これまで学校へ行くことが当たり前だった子どもたちからは「友達と話がしたい」「勉強や部活がしたい」とストレスを抱え、家庭ですることが無かったり、SNSなどの中でつながりを求めたり、学校という当たり前を無くして戸惑っている姿がありました。

マルトリートメント

 「自分の気持ちを尊重してくれない。親の都合で突然物事が決められたりする」「お金をかけてもらっているので、親の期待に応えないと申し訳ない」と電話が入ります。
大人側の非常に身勝手で子どもの存在を無視し、子どもを自分の思い通りにしようと支配する不適切な養育はマルトリートメントです。マルトリートメントは子どもの尊厳を侵す権利侵害であり、子どもの心と身体の健全な成長・発達を阻みます。

精神疾患

 精神疾患の多くは子ども自身がもともと持っている素因と共に発病のきっかけとなる要因が大きく影響してくる疾患です。子どもたちの電話の中からは、生活環境や競争社会の中での過度のストレス、そして孤立している状況が見えます。効率優先の社会は、他人に寄り添う余裕を失うことにもなります。ネット環境が進んできていますが便利さの中に、人が孤立しない環境を作っていくことが望まれるのではないかと考えます。

2020年度 子どもの声を受け止める

~子ども専用電話「チャイルドラインMIE」・「こどもほっとダイヤル」の電話データからみえる子どもの状況~

「チャイルドラインMIE」の報告

チャイルドラインは、全国68の団体がネットワークを組み実施している子ども専用電話です。三重県では毎日実施できていませんが、実施のない時間は開設している全国のチャイルドラインで受けてもらっています。2020年度チャイルドラインで受けた三重県発信の電話は6,175件ありました。

※使用データは、チャイルドライン支援センターのデータベース(2021年3月31日までに入力完了データ)を使用しています。

「チャイルドラインMIE」の報告内容

「チャイルドラインMIE」の報告内容
「こどもほっとダイヤル」の報告

三重県では、三重県子ども条例に基づき、子ども専用電話相談『こどもほっとダイヤル』を開設しました。子どもの声を受け止め、子どもとともに状況や気持ちを整理しながら子ども主体の解決方法を考えます。専門的な対応が必要な場合は関係機関につなぐことができます。
2020年度は、1,256件の電話を受け、虐待3件、いじめ6件、体罰他3件を関係機関と情報共有しました。

「こどもほっとダイヤル」の報告内容

「こどもほっとダイヤル」の報告内容